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タイトルは別に某ドラマに便乗したんじゃないですw
けど、誰かが書いてた理由シリーズあたしもやろかな!

さ、とうとう明日、フィリピンに出発します。

4月下旬?7月上旬:セブで語学留学
8月−10月中旬:バックパックで東南アジア+インドまわる
10月中旬−12月下旬?:インド、カンボジアでインターン

な、予定。
ほんとなら、今頃就活してる予定だったのですが、まあ休学を決めてこんなふらふらすることになったわけです笑

その理由とか、目的をつねに意識して実践できるよう、ここにも書きたいと思います!


目標から言ったら
“全力になる“ということ!

そもそも、去年の10月くらいまでは今年就活するつもりだったのですね。だし、自己分析とか地味にやってたんだけど、夏のインターン通してもう一度自分のやりたいこと考えたり、自分の思い描いていた将来像へのGAPがかなり開くまで放置してきてしまったことを思ったら、いま就活の前にもう一つステップを踏まなくちゃと思ったのです。
これがそもそもの理由ね。

で、”全力になる“って、どういうことなのか。
上に自分の将来像って書いたけど、それは
・ 言語能力の向上だったり
・ リミッターを外してクレイジーに生きることだったり
・ 常に新しいことに挑戦し続けて、変化し続ける
とかいうもの。

で、これを実現するのに一番必要なのって“全力になること”だと思ったのです!

これも以前に書いたけど、岸恵子さんが言ってたもので
『私の人生は、芸一筋とか継続は力なりっていう生き方ではないけど、非日常に惹かれるから、そこに飛び込まずにはいられないから、その一つ一つに全力で取り組んできた。全力で取り組んできたから、これが自分の人生だと胸はって言える』って。

私もこれにすごく共感した。けど、一番大事な“全力で”ってのができてない。でも、ただただあちこち手を出すだけじゃ、ほんとにふらふらしてる何もできないやつで終わりなんだよね。

挑戦することに価値はあるけど、力抜いてたんじゃ元も子もないし、もったいないし。

全力で取り組むことで、新しい挑戦に行くことができて、確かに変化していくことができるはずなの。

だから、“全力になる”っていうのは、今のあたしの最重要で最大の課題。


と、言う訳で、私のこと厳しく見守ってください笑

行ってきまーす。


震災のことに関して。
休学を決めて、APUでのテストが終わってすぐに実家のある仙台に帰ってきました。

?大好きな仙台で、家族と一緒に過ごせる。
?認知症のおばあちゃんの介護、ちょっとでも手助けしたい。
?休学中の費用を稼ぐ。
?語学、知識のインプットー休学の準備期間
?ずっと長く帰れずにいた、”被災地“としての仙台と関わりたい。

こんな目標もあった。
特に、?番の震災に関して。
京都にいるときも、大分に行っても、やっぱり私の気持ちは誰もわかってくれない、というか分かりっこないだろうって思い続けてた。
どちらにいても、周りとの温度差がいつも気に障る感じ。

前にも書いたけど、あたしは直接的に被害を受けた当事者じゃないし、だから被災地に入ってくれる人たちにああだこうだ言える立場じゃないかも知れないけど、やっぱり私の地元でもあって、中途半端で自分勝手な当事者意識がある。

だから、そういうよくわからん気持ちがありつつも、何かしなきゃ、何かしたいって思いはあった。(わたしの周りに、自分よりよっぽど足を運んでくれている友人や知人がいて、焦りというか変な悔しさみたいなのがあったのかもしれない。これまた、ほんっとに自分勝手だけど。)

それで、仙台帰って、祖父の実家のあった荒浜地区でがれき撤去や泥だし含めて農業支援やってる団体で数回だけお手伝いさせてもらいました。

けどさ、毎回、農家の人によくしてもらってそういう出会いも嬉しかったのだけど、そこは私の経験を共有するための空間ではないわけで。共有されるべきは、農家の人たちはじめ、当事者たちであって、あたしのこんな感情を聞いてもらう場所でもなんでもなくて。

あたしは何しにここに来ようと思ってたんだか、本当に勝手で、失礼だったと思って。

だから、4月に入って行かなくなってしまった。
逃げたのかな。
結局、純粋に何かしたいって言うんじゃなかったんだよね。
ただ、自分の気持ちを誰かに分かってほしいって思いだけ。

今まで、自分の感情も事実だし、誰かに聞いてもらいたいってもいいのかなって思ってたけど、やっぱり違うのかもとようやく思い始めた。

全部自分の中に閉じ込めちゃうってんじゃないけど、やっぱり、私自身がまず声を聞こうとしないことには、相手だって私の話なんか聞けないよね。

“寄り添う”ことの実践は本当に困難だとは思うけど、
ほんとに努力しようとしてなかった。

これから、ちょっとの間、仙台から離れるけれど、今度こそ、もっともっと多くの声に耳を傾けられるように、自分から努力したいと思います。うん。



家族で2日間かけて、にへい家の“3人目のおばあちゃん”の足跡探しに行ってきました。


−−−−−−−−−−−−−−


おばあちゃんとの出会いの始まりは、あたしが生まれる前。
父が大学生の頃。
社会調査でたまたま受け入れてくれたのが、おばあちゃんの住んでいた岩手県沿岸部の小さな集落。

そもそも、このおばあちゃんの家は調査対象ではなかったみたいなのだけど、お願いしてた御宅が留守だったので、飛び込みで協力をお願いしたうちの一人だったらしい。

そこで、おばあちゃんがあんまり人当たりが良く感動しちゃったあたしの父が、それ以降ずっと電話やお手紙を続け、度々訪れてた。

それで、父は結婚して、姉やあたしが生まれてからも、おばあちゃんのとこに一緒に連れてってくれた。遠いし、あたしは2回しかいけてないけど。

それでも、小さいながらに記憶してるのは、いつも山盛りに作っていてくれたおばあちゃんのおいしい料理と、語尾に「〜ござんす」ってつけるのと、気丈でやさしい表情。何かね、あたし小さかったけど、すごくおばあちゃんが大好きだったし、母も「おばあちゃんのこと、ぎゅってしたくなるね」とか言ってて、とにかく私の家族にとってすごく愛おしい存在でした。

そのおばあちゃんが、昨年亡くなっちゃった。
といっても、ほんとに苦しまず、ゆっくり眠るように逝ったみたい。
92歳とか。
びっくりなのが、旦那さんに先立たれて、13年くらいひとりで暮らしてたのさ。
亡くなる前年位まで、毎日日記を付けて、大好きな畑仕事をして暮らしてたって。



今日は、息子さんがわざわざ仕事休んで来てくださって、いろいろお話した。
そしたら、小さいとき曖昧だったおばあちゃんの人物像がちょっと見えてきて。

おばあちゃんは、ここに嫁いできたころ、開拓集落だったこともあってこれからこの家や集落を発展させて、しっかり守って行かな、って意思がものすごく強かったみたい。

だから、絶対にここを離れずに、旦那さんがなくなっても一人で頑張ってたんだなって。
ほとんど外に出たりできなかったろうけど、そういう強さがおばあちゃんをここまで生かしてくれてたのかなって。

前来たときは、ただお話聞いてたばっかりだったけど、きっと今一緒にお話できるならきっといっぱい刺激をくれたんだろうな。



−−−−−−−−−−−−−−


それで、ありきたりだけど、こういう出会いとか繋がりってすごいなと!
あたしが今学生で、将来、旦那さんや子どもに会わせたいと思う人って誰だろう?
もしいたとしても、なかなか気付かないのかも?
でも、本当に会うべき人とは繋がっていけるのかな。

おばあちゃんとの出会いにすごく感謝してるし、あたしにとったらほんの少しの時間だったのにこんなにも印象深い人物であって、自分も誰かにとってそうあれたらいいなって。そして、人との出会いをもっともっと大切にしていきたいなって思ったのでした。



おばあちゃんといつも一緒に写真を撮ってた、お家の前のおっきな杉の樹。

おばあちゃんが天国で安らかに眠れますように。



 
今年はじめて書きます。
もう2月になっちゃったけど、
明けましておめでとうございます!
今年もよろしくお願いします!

*****************

さあ、あと3日で別府を去ります。
すーっごくあっという間だったAPU国内留学。
やりたいこと考えてたんだけども、いろいろ残しちゃったかなという思いもあります。
だから、これからのためにこの一年をちょっとまとめて、今年のプランを書いとこうと思う!

*****************


去年の1、2月はAPU行きがやっと決まってウキウキしてたんだけど、3月に震災がありまして、家族と連絡取れなくなったり、頭ぐちゃぐちゃになりまして、「あんたはこっちの心配しないで引越し準備しろ」とかドラマみたいなこと親に言われたり、何だかよくわからないことになりました。

まあ、幸い実家は無事だったわけでAPUに来れたわけですけど。
本当に周りの人には感謝しています。

けどさ、びっくりしたよね、ほんと何もなくて(笑)

全部こっちで買い揃えようと思ってたから、包丁も鍋もなくて最初の2週間くらい食生活終わってました。

けどまあ、何とか生活しつつもまた4月7日にあの地震。
友だちが連絡くれたから、すぐに親に連絡とれたけど、心配でキッチンのTVでニュースみてたら、あたしの横でフロアメイトが電話で「私、最近ちょーモテ期」的話をしだして、びっくりした。

何か、関西にいたときもなんだけど、この差はなんなんだと。やっぱ、とおくのとおくのお話なんですねって。

だから、APU生活の始まりは、こんな感じで、やりたいことうきうき考えてた心構えがぶっ飛んで、被害者意識と敵対心丸出しのブラックにへいで迎えたわけです。

けど、
・タイで開発支援してるサークル入ったり
・ミャンマーweekでキャンドルダンスしてめーちゃくちゃ楽しかったり
・SVAでのインターンの面接受けたり

前期は、やっと楽しくなってきた頃おわった。
そして、夏休みのタイでのインターン。

いろんな人に出会えてすごくすごく素敵な時間だった。
けど、準備不足とか逃げとか、自分への甘さを実感することになって。

後期は、ずーっと、これからのこと悩み続けて全然決められずにいた。とりあえず就活(SPIとか自己分析とか)ちょっとかじったりしてもピンとこなくて、むしろ、どうしても大学入って以来ずっと持ってきたコンプレックスに戻ってきてしまって。

そして、ぐちゃぐちゃしながらも、今年の就活はやめて、休学という選択にいたったわけです。

休学中は、コンプレックスぶち壊して、コリコリの脳みそもほぐして、追い込んで追い込んで追い込んでとことん自分と向き合う時間にしたい。プランは設計途中。


***************

総じて、APUでは自分のキャリアのことを素直に考えられるようになったかなって思う。立命にいるとき、くだらないプライドとか周りの目とか気にして当たり前のように選択肢から外しちゃってたこと、APUでは何でもない顔して「それが俺の夢」みたいに語ってたり、実際にそれに向かってる人たち見たら、何か自分のほんとにやりたいこと真剣に考えるべきだったって思った。

そして、準備の大切さも痛感した。APU生活の始まりも、インターンも、そもそも大学入るときも、自分で明確なビジョンとかシュミレーションとか全く十分に出来てなかった。だから、これからは、絶対に準備をしっかりして全力で臨みたい。だし、1回生とか、これから大学来る子にもそれに気づいてくれたらとも思う。

***************

APUでは、いろんな刺激的な出会いがいっぱいあったよ。
みんなに出会えてよかった。
APUという人種と交流できてほんとよかった(笑)

次は社会のフィールドで勝負しませう!(勝負?)
でもkeep in touchね。

今日はこれでおしまい。(唐突?)
あでゅー。



にへ



 

とか、歌ってますが
今日は2011年の仕事納めでした。
明日は2012年の仕事はじめです。
10時間労働、わっしょい。

いろいろ書きたかったのにかけずに来ちゃったな。。。
ま、年越えてもちゃんと書くよー。

今年はいろいろな出会いがあったから、来年はもっといろんな出会いから自分と向き合う時間をたっぷりじっくりとろう。

でも、何かにつけて時間を区切ろうとするといつも躓くからあんま変な気合いれんとく(笑)
今日は12時まで起きてられるか不安なくらいおなかぱんぱん。年越しそうめんのせいで。

ふう、テレビ番組は「がんばろう」とか「東北に向けて」とか連発しまくってますね。お祭りのおまけみたいでちょっといややなんてココで愚痴るなって話ですが、しょうがないよね。

たまには何もしない大晦日もいっか。

愚痴みたいな日記(笑)

おやすみなさーい。


 
今日で震災から9ヵ月。
『ファインダー越しの3.11』を読んだ。
一番しっくりしたなーという感想。

未曾有の大震災とか、死者○○人、行方不明者○○人、とかばかり聞いていてもそれは全然実態を見てることにはならないと思う。そこには、ひとりひとりのストーリー(と言ったら語弊があるかもしれないけど)があるはずなのにいっしょくたにされてそれが埋もれていってる。

でもこの本では、そのひとつひとつのストーリーに耳を傾けようとしてるし(ほんとにそのごく一部に限られはするけど)、そこでの筆者の葛藤もありのままに書いてくれてるから、読んでよかった。

それで、あたしも感じたままを残さなきゃと思ったので、震災のあと初めて荒浜に行った時のことを書く!

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震災があって、ずっと地元に帰りたいと思ってたけど、やっと帰れたのはGWの時。
もちろん、経済的なこととかもあったけど、最初のうちは、やっぱり自分が行っても何の役に立てるのか分からなかったし、友人や知人が被災してる中でボランティアなんて形で入っていくことに抵抗があったりどんなふうに接していいかも分からなくてこわかったから帰れなかった。

名古屋から新幹線乗り継いだけど(この2日位前にやっと東北新幹線が開通)、福島に入ると地震で崩れた瓦屋根を抑えるために青のビニールシートがかかった家が増え始めた。

けど、仙台の街並みはやっぱりそんなに変化は見えなかった。
ずっと地震に備えてたのもあると思う。ずっと宮城県沖地震が来るって言われ続けてたし。震度5、6とか結構きてたし。実際私の通った中学も高校もちょっと前に耐震工事とか建て替えをした。(おかげで高校最後の年はプレハブだった。)

それでちょうど名取過ぎた当たりから、新幹線であたしの近くに乗ってたいかにもボランティアしにきました!みたいなバックパックしょって意気揚々としたおじさんが窓の外をiPhoneで撮りまくっているのを見てすごい不快な気持ちになった。あたしたちの街に土足で入るなと。(そんなであたしはしばらくボランティア(特にボランティアに行ってきたと声を大にする学生とか)の存在がすっごく嫌だった、現地のニーズは全く無視してただの感情論だったけど)

それで駅につくと、両親が車で迎えにきてくれてた。
そして、家の流されちゃった親戚へのお見舞いにあたしもその足でついて行った。
最初親に『荒浜に行きたい』っていったとき、『どうして?』って言われた。
なんて答えたかちょっと曖昧だけど、とにかく『いかなきゃだめなの』って答えた気がする。
結局親は連れていってくれることになったけど、聞かれたとき何だかドキッとした。

こんなこと言ったらダメなのかもしれないけど、あたしは地震のとき自分が仙台にいれなかったことをちょっと悔しく思ってた。震災からずっと、被害者意識?当事者意識みたいなのがすっごくあって、そばにいたいって思うのに、でもあたしが実際に地震を経験したわけでも津波の被害にあったわけでもないのに。だから、周りに自分の気持ちをなかなか分かってもらえないと思ったし、こんな風に当事者意識をもっちゃいけないのかなとかも思った。

でもとにかく、いかなきゃ行けないと思ってた。

それで、まず親戚のとこにお見舞いに行った。おじさんのところは幸いにも、すでに仮屋に住んでいた。けど、はっきりいってとっても惨めに思われた。あんなに立派なおうちに住んでいたのに、いまは平屋で周りの大きな家に隠れるようにして建ってるおうちに肩寄せ合って住んでいた。着のみ着のまま逃げたから、ほんとに全部なくしてた。父は震災後にも何度か会いに行ってはいたけど、まだお互い気を遣って言葉少なに玄関先ですぐにおいとました。

そのあと、荒浜へ。
母もこの時が初めて。名取の友達からも「東部道路を越えたら地獄」と言われていた。本当にその通りだった。
道路を越える手前に広がる田んぼのあぜ道の電信柱は傾いたまんまで、少し瓦礫が残されていたくらい。けど、東部道路を越えたとたん、瓦礫の山が永遠と続く色彩のない光景がずっと続いてた。母が「えぇ?!」って声にならないヒステリックな声を出したからそれで私も声がでなくなった。いつも気丈な母が怯んだのを目の前にしてわたしも気持ちが一気に不安定になった。

仙台平野には、海に平行に東部道路ってのが走ってて、それが数メートルの土手みたいに少し高くなってる。だから、そこにはい上がって助かった人も多くいたらしい。

すぐ、警察の検問があって、親戚の家(のあと)に行きますって言うと通してくれた。親が言うには、ちょうどその頃、津波の被害を見に野次馬みたいな人たちがそこへ行って写真を撮ったりしていることへの批判が新聞の投書欄に出たりしていたみたいだった。もちろん、防犯の意味もあるし。

そっからはただ嘘でしょと思うばっかりだった。
ほんとにこれはいくらテレビで映像見たって新聞で写真見たって話聞いたって分かりっこないって思った。文章にしたら薄っぺらになってしまいそうで。重機はかろうじて入ってるから道っぽいのはあるけど、家なんて認められるものは一切なくって、瓦礫が高く積み上げられてて無機質で冷たくて、それに圧倒された。その日は天気が悪かったのもあるのか、モノクロの世界みたいに見えた。

荒浜小学校のグラウンドにちょっとだけ駐車スペースがあったから車を止めて降りた。津波で車を流された人も多いから、家に戻ってくる人たちを送りにきたタクシーのおじさんがじっと運転席で待ってた。遮るものもないから風が強く吹いてて、5月なのにものすごく寒かった。

そこから泥の残る道?を歩いておじさんの家を探した(私の親戚はあの一帯に3家族くらい住んでいて、仮屋に住んでる人とはまた別の人のおうち)。かろうじて道はあるんだけど、歩いても歩いてもおうちが見つからなくって、もうほんとに場所が全然わからなかった。目印も何もなくて。どこも塀が30〜50cmくらいの高さで残ってはいても、そこに流れ着いてるものも、どこから来たものだかもわからないし。結局この辺かなって手を合わせて帰ることにした。

私は、現地の様子を友達にも伝えたかったし、少しでも分かって欲しかったし、知らない人の写真より私のとったものなら近く感じてくれるかなと思ってカメラも持って行ってた。けど、カメラを出すこともできなかった。まだ、家に残された何かを探しにくる人だっていたし、遠くで重機を動かす人の目も私に向いてる気がした。部外者がここでなにしてるの?って。あと、こわいって思いもあったのかも知れない。

荒浜は、3月11日の夜の時点で200〜300の遺体があがったと報道されたところだった。あたしはそれを聞いたとき思わず泣き崩れた。その時あたしの祖父もラジオを聞いて親類みんな絶望的だろうと覚悟したとあとから聞いた。

でも、そんな報道がされていながらも、なかなか遺体の引き上げが進まなかった。全然ニュースにあがらなかった。平野だったし水がなかなか引かず、しばらく人が入ってける状況じゃなかったから。

そんな状況だったから、あたしが荒浜に行った時ももしかしたらまだここに助けを待ってる人が居るんじゃないかと思ったから写真をとれなかったんだと思う。木にひっかかった衣服を見るだけでも思わずぞくってしてしまってた。そのくらい、全てが生々しかった。


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そのあと、このことを伝えたいと思って何度か言葉にしてみたけど、伝わってるのか分からない。そして、わたしも何かしたいと思いつつも、泥かきなどのボランティアも考えれば考えるほどどう接していいのか分からなくてわたしのやるべき手段じゃないとか理由をつけてたいして行動できずに今まで来てしまった。

けど、やっと春に仙台に長く帰ることにしたので、改めて自分の出来ること考えてみようと思ってる。行く前から自分勝手に手段を選ばず出来ることをとにかくやってみるか、やっぱり納得いく手段を探すのかまだわからないけど、祖父や友人とももっと話して考えたいなと思う。まあ、先は長いんだ。

どうまとめていいのかわからないけど、うん、分からない笑
でも、誰かが読んでくれて何か感じれたなら書いてよかった。





 

はろーーーーー!
またまた1ヶ月以上空いちゃいました。
キャンプのこと書きたいのだけど、
一個前の日記の状態から大して進めずにいました。

でもちょっぴり兆しが!

先日の朝日新聞の記事に岸恵子さんがこんなこと書いてました。

・フランスには「卵を割らないとオムレツは作れない」ってことわざがあるそうな。
何か新しいことをしたかったら、いま待ってる何かを壊さなきゃいけないんだってこと。

・非日常を求めること。そういう生き方について。

・「芸一筋」って言うんでも「継続は力なり」っていうんでもないかもしれないけど、選びとった道は持てる力を全て注いできたと。


いままでの自分の経験とか生き方を書いてる短い記事なんだけど、すごく共感したのです。出会った非日常を捉えずにいられないというか、気づいたら飛び込んでしまっているような。あたしもそんな生き方に共感したのです。

私はいまはいろいろためらってしまうし、経済力もないし、周りに心配をかけるだけなのだけど、人生の選択のあり方として、こうありたい!と思う。

何か一つこれってものが欲しいとも思う。けど、そうじゃないあり方も可能なのかもって思えた。本当に全力で取り組めるなら。

自分が選択した道を正しいとか間違いだったとか決めつけるのは自分で、もし失敗だったなって思ってもそれからどうするかがもっと大事なわけで。


それから今日のセーブザチルドレン海外事業部マネージャーの越川さんの言葉で

・やっても見ないこと考えても分からないじゃない

って。そりゃそうなんだよね。やってみて違かったってなるかもしれない。けど、違ったってことだってやってみなきゃ分からないこと。当たり前だけど、結局理由って後から付いてくるものなのかな。

「時間って思ってる以上に短いよ」
ってこの夏に何人かに言われた。だから、やりたくないことやってる暇はないんだよ。時には我慢ってのも大事だけど。もちろん、そんなに焦らず(別にせかせかしたいわけじゃないけど)、リスクだらけの中に飛び込んで行かなくっても楽しい人生はいっぱいあるだろうけど、私が魅力を感じるのは非日常に飛び込んでく生き方かな、と今は思う。

恋愛には安定を求めるとか言ってるんですけどね(笑)
結婚したら安定求めちゃうかもですがね(笑)

とりあえずいまは、そんなビジョンなわけで。

というわけで、いまの私の頭の中はこんな感じで、将来の選択をしていくことになるだろうと思います←結局マイペース

でも大丈夫!今回はあまりに決心できないのでドツボにはまる勢いでしたが、結構固まってきたなり!

もっともっと毎日を楽しく生きよう。
幸せに生きよう。
考え方一つ。
感じ方一つ。
全力で。

そんなこんなでAPU生活もあと3ヶ月なんですね。
今からでも遅くないもん。
全力で。
あらゆる機会を使いまくって帰ってやる。

がたがたごとごとでも味のあるmy wayにするんです。
うん。


一人暮らし始めてからただいまって言ってもだれも返してくれないから、いっそ自分でお帰りって返してあげてるにへいです。
13日に帰国しましたー。

帰ってきちゃいましたー。

結局タイでは2回しかブログ更新できなかったのですが、まだまだ報告したいことがたーくさんあります。本当に1カ月にいろいろあった。もうちょっとできたかなって悔しさもあるけど、その分絶対にこれからにつなげたい。でも何より、すごく素敵な時間を過ごせたのはたしか。参加して本当によかったって思う。だし、これを早く伝えたいーーーー!
しかし、、、、帰ってきてからパソコンの調子がおかしくて。

どうやらバックライトの故障?
まだ5年保証聞くから修理出そうと思ったけど2〜3週間かかるらしい。え。こまる。

ってなわけで、写真が取り込めないため(今、寮のPCつかってる)、もうちょっと経ってから、難民キャンプの様子、第三国定住のこと、マイグラントスクールやNGO訪問のことなどトピックごとにいくつか更新予定です。

最近は(帰国して3日目ですが)、パソコン壊れたりとか、会議あったりとか、レポート書かなきゃだったりとか、お勉強開始してみたりだとか、久々にマック食べて胃もたれしたりだとか、雨の日に窓あけっぱでお出かけしちゃったりとかいろいろありまして、ええ、はい。

しかも、研修終わりのバンコクで超強烈な出会いをしてしまい(超想定外)、何かいまいろんな思考がめぐっててジレンマでしんどいです笑
自分の甘ったるいところ、将来のこと、久々にぐさっと刺されました。わたし基本甘やかされてきた。(みんなあたしに優しすぎんねんもん←)でも今思えば、何か言葉に出して言われたというよりも、あたしが勝手にその圧倒的な雰囲気からプレッシャーを感じ取ったような、、、笑
でも何か、ぐさっと刺されたって形容があってる感じ。

まあとりあえず、悔しい?恥ずかしい?気持ちになったのです。んで、将来のこと、そろそろ腹くくらなあかんのだなって。

それでどうなったんだまで、到底達してないですけど、あたしが人生で初めて接した人種や!とか思いました笑 でも何か嫌とかじゃなくて、脅威ではあるんですけど、やっぱ負けたくないのかな?見返したいのかな?これから見てろよ!っていう存在になってます勝手にね(いまのとこ)。facebookでお友達になったし笑

ま、この通り、現在私の頭はわちゃっとしております。

でもやりたいことやり続けるのみ。

進むのだ。

だれのために?

だれのためにってこれもめっちゃ難しいな。

これはまた今度。



あでゅー



 
ハラゲー(カレン語でこんにちは。)

最近いろんな民族に接しすぎて言葉がよくわからなくなります(笑)
タイ語とビルマ語、タイ語とカレン語は区別できるけど、ビルマ語とカレン語がなかなか聞き分けられません・・・。

タイ・ビルマ国境の町、メーソットに来て、一週間ちょっとが経ちました。
普段は、オフィスで書類作成などのいわゆるデスクワークをしているわけですが(NGOってこういう地道な作業がほんとに大事だと感じる最近)、難民キャンプに行く機会もいただいています。

これまで、
・ウンピアムキャンプ(カレン民族の年に一度のお祭りに参加しました!)
・メラキャンプ(わたしたちの支援するキャンプで最大の難民キャンプ)
を訪問しました。

そこで今日は、雨季のことについて。
とくに今年、タイの一部は連日大雨に見舞われています。前回でのブログにも書きましたが、キャンプ内でも、川が増水し、家の浸水、家屋の崩壊、備蓄食料がダメになるなどの被害がでています。洪水までにならなくとも、毎年この季節があるとなると、インフラ整備の整わないキャンプ内で本当に普段の生活に支障がでるのは想像に難くないですよね。

私がウンピアムキャンプを訪問した際にも、まずその道中でこんなことに。




大規模な土砂崩れがおき、だいぶ足止め食らってしまいました。キャンプに行くための唯一な道であるため、多くのNGOや現地の人たちの車やバイクが双方向にながーい列を作っていました。




このあと、トラックをよけるように何とか通れたのですが。
このように、雨季になると、キャンプにたどり着けず引き返さなくてはならないこともしばしばあるようです。農作など禁止されているキャンプ内で、こういった理由で物資が届かないというのは、明日の生活に関わる本当に大きな問題です。

そして、無事にキャンプに到着し、お仕事を終えてそろそろ帰ろうというとき…



ここで図っ転びました笑
もうね、ここ階段なんですが、雨でちっちゃな滝状態でつるっつるだったのですよ。腰と肘を強打しました。ここに住んでる人たちは器用に登るんだけどね。感心しちゃうくらい。でも、この日はそこまで強い雨ではなかったし、やっぱり排水の機能がほとんどないからこういう道に流れが集まっちゃうのね。土なのにあれは岩みたいやった…。




そう、キャンプの土ってすごく赤っぽくて粘土質なのです。固くなるとこはすごい固くて、やらかいとこはペチャペチャ。ゆえに、汚れがとれない。しかも、このまま新聞敷いて車乗って帰ってきたせいもあって、ズボン通り越してパンツ通り越してお尻にまで泥汚れがついてものすごい強者でした。クリーニング出しても服の汚れ取れなかった;; 日本に帰ったらもっかいチャレンジしようかと。こっちにいるうちはそのまんまつかいまーす。誰も気にしちゃいないさー。

そんなこんなで、ちょっとだけ雨季の大変さを実感してみたりしています。(ただドヂなだけですか?)
まあ、前回メラウに行ったのは乾季で、その時は砂埃がひどくってそれはそれでかなり大変だったのですが。つまり、本当に年中過酷環境なのですね。

そして来週、というか今週?はまた別なキャンプを訪問する予定ですので、またレポします。たぶん、とってもサバイバルな生活してきます(笑)


日本もなかなか暑くて大変そうですが、みなさん体調には気を付けて!

ではでは。



ウンピアムキャンプの様子。


 

ミンガラーバー。ハラゲー。サワディーカー。
(*順にビルマ語、カレン語、タイ語で「こんにちは」)





タイ・ビルマ国境の町、メーソットに来て数日がたちました。
写真はfriendship bridge.川を挟んで向こうはビルマのミヤワディーという町。ただ、このborderはいま閉鎖中。人々の行き来はあるんだけどね。タイ軍も暗黙の了解っていうか、把握しきれないから仕方なくなってるみたいだけど、まあillegalだよね。

わたしは、SVA(shanty volunteer association)というNGOのインターンで、これから1ヶ月こちらに滞在してメーソットオフィスでお仕事しながら難民キャンプの視察、インタビューなどを行います。ちょっと、ここ数日の大雨で難民キャンプに洪水の被害が出ているので、緊急支援等入りそうですが。
しかもまあ、昨日はタイの母の日(王妃のお誕生日)だったので来て早々3連休=まだ実勤1日ですが(笑)

でも今日はmigrant schoolを訪問したり、明日はウンピアムキャンプでカレン民族の年に一度のお祭りに参加予定だったり、充実してます。

まずちょっと簡単に説明!


*******************

【about Burma & Barmese refugee】

タイのお隣、ビルマ(ミャンマー)は軍がその政権を握っていて、暴力によって人権が侵害されています。また、古くから100を超える民族が共生してきた国でもあって、その民族間の衝突や国軍による少数民族への抑圧といった側面もあります。政治や経済面でもタイ、中国といった隣接する国々との関係が強かったり、本当に広く見ていくことが大切です。

そんな状況の中で、ジャングルを超えて、タイ側に逃れてくる人々が大勢います。その人たちが住むのが難民キャンプ。ビルマ側にも国内避難民のキャンプがあるけど、SVA含むローカル、国際NGOが支援できるのはタイ側の難民キャンプだけ。

ほとんどがカレン民族のキャンプ。あとは、カレニーやシャンなど。もちろんその中にビルマ人や他の少数民族の人たちも混ざっているけど。

なかでもSVAが支援しているのはカレンの7つのキャンプです。

こちらに事務所置いて難民キャンプ支援のために駐在してる日本のNGOはSVAだけ。でも、他にもビルマからの移民などの支援団体も含めて本当に多くのNGO(UNHCRとかも)がこのメーソットを拠点に活動しています。

しかも、あたしはこっち来て知ったんだけど、難民キャンプを支援する団体はタイ政府に申請が必要だから、それぞれが教育、食料や住居、保健医療といった分野を分担して支援してるの!ちゃんとそれらの団体のコミュニティーがあって、どんな活動しているのかちゃんとシェアしてる。

なんていうか、わちゃーっていっぱい団体があるのかと思ったら、ちゃんとしてたから、そうかって思いました(笑)よく考えたらあたりまえ?

これから移民の問題にも触れる機会が増えそうだからまたあっぷします。今日は大雑把にこんなとこ。


******************

とりあえず私はthai foodを楽しんでいます。うふ。


‖膵イパッタイ↑




▲オソーイ(タイ北部の料理、カレーラーメン)↑

はい。グルメが多くなりすぎないよう気を付けつつ、またアップしますね。今日行ったmigrant schoolのレポもまた後日!


では、明日は4時起きなので寝まーす。
おやすみなさい。